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「800字文学館」

涙ポロポロ

中村 晃也

「夕べ学生のデモがあって、警官が一人死んだらしい」と車の運転手が言った。「学生の言い分も分かりますがね。今夜は南大門から市庁舎あたりでデモがありますよ」
 私はソウルの市庁舎広場の一角にある、ロッテホテルに滞在していた。ホテルの出入り口周辺には、顎紐をしめた警官隊が警戒していた。「お客さん、今夜は外出しないで下さい」とロビーのマネージャーから注意された。

 ロッテホテル十二階の部屋で、テレビに飽き、寝しなに窓のカーテンをしめようとして、下の道路を見て驚いた。二、三百名の学生とほぼ同数の警官隊が、数メートルの距離をはさんで対峙している。学生隊の後方からいくつかの火炎瓶が、学生の頭上を越えて警官隊の中に落下した。
 警官隊からは催涙ガス弾が打たれ、白煙が立ち昇る。学生達は数十メートル後退するが、しばらくすると体勢を整え、徐々に前進し再び火炎瓶攻撃だ。この攻防が数回繰り返されたのを見て、私は寝てしまった。

 一九八七年は韓国の光州で、のちに「六月抗争」と言われた大きな紛争があった。その影響を受けて、ソウルでも学生達が実力闘争に立ち上がり、私は丁度その日に行き合わせたのだ。
 日本では、一九六十年に、岸内閣に対する日米安保反対の学生運動が起こり、樺美智子さんが亡くなった。
 学生運動は一国の発展期に必ず起こるものとすれば、中国のように、学生運動を抑圧している限り、真の意味の政治的な発展は期待できないのかもしれない。

 翌日ホテルを出た途端、目がショボショボして、鼻水が止まらない。警官が道路に散水して、夕べの催涙ガスを洗っていた。
 その夜、ホテルのバーでウイスキーを飲んでいると、やたらに涙がこぼれてくる。「なんだ、ホテルのバーにまで催涙ガスが入ってくるのか」とバーテンに厭味をいったところ、彼は敵ながらあっぱれな返事をした。
「お客さん、今流れている曲のせいですよ。ザ・プラターズの『煙が目にしみる』ってご存知ですか?」

二十五年 九月

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