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「800字文学館」

怖い話

濱田 優(ゆたか)

 男は持病の薬をもらうために定期的に医者に通っている。
 三月下旬のある日、いつもの通り受付に診察券を出して待合室で待った。
 と、受付嬢が来て、後期高齢者の保険証を持ってきたかと聞き、今日から従来の国民健康保険証は使えないと告げた。その日が自分の七十五歳の誕生日であることは勿論承知している。ただ、月末までは従来のものが有効と思い込んでいたので、新しい保険証の送付をまだ督促していない。
 家に戻り、窓口の区の「国保・年金課」に電話した。相手は、とっくに送った、という。税金や保険など重要書類はキチンと保管しているので紛れることはない。そう伝えても埒があかず、押し問答の末、
「ともかく保険証はご入用でしょう。再発行して送ります」
 相手は親切でそういってくれたのだろうが、「再」に引っ掛かった。
〈問題を起こした年金の窓口も兼ねているのだから怪しいものだ〉
 と、いちゃもんを付けたかったけれど、さすがにそれは抑えた。
 念のため、最近の郵便物を調べたが、やはりない。ついでに古いものをさっと見ると、派手なオレンジ色の封書が目に入った。封筒に目的の保険証在中と記されている。しかも封は切られ、保険証は然るべき抽斗に保管されていた。
 役所に何と説明しよう。男は頭をフル回転させ、昔の経験を思い出した。まだ若い工場勤務の頃、製品に異物が入ってクレームが起きたことがある。調べると、製造装置のボルトが緩んで落ちたのに、上司は、会社の信用に係わるといい、卑劣にも下請けの袋詰め作業のミスにすり替えた。
 男は先ほどの窓口に、妻がその封筒を仕舞い忘れた、と伝え、自分の面子を損なうことなく一件落着とした。
 しかし、深酒をしたわけでもないのに、自分が無意識のうちにそんな行動していたことが怖い。人に知られる前に病院に行こう。
 しかししかし、この経緯を一部始終記録した妻が、弁護士と相談して離婚理由に「夫の人間性」を加えようとしていることを、男はまだ知らない。

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