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「800字文学館」

艱難辛苦の愉しみ

志村 良知

 そのホテルは町から離れ、湖に面してポツンと立っていた。
 アルザスに赴任して初めての春、一寸遠出のドライブをする余裕も出て、国境を越えシュバルツバルトを目指した。早春のシュバルツバルトは、山の中を走る道路の標高に従って銀世界と若葉萌える田園が繰り返し現れる素晴らしい景色だった。
 ティティゼーという、森に囲まれた湖に着いた時は雪が舞い、唯一開けた湖の東側で、観光施設のある小さな町も閑散としていた。町を離れて湖沿いに走っていると、一軒家の木造のホテルが目に入った。尋ねると空き部屋があり、そこに泊まる事にした。
 寒かったので、ディナーに鹿肉のシチューを注文した。大きな深皿になみなみのシチューには拳大の肉塊が四つ程、横の大皿には茹でた人参などの野菜とジャガイモがごっそり、さらにパンまで山盛り。連れ合いと思わず顔を見合わせる。
 初めて食べる鹿肉は、赤身とレバーを付き合わせたような感じでなかなか旨い。味付けも良い。しかしとにかく量が多い。皿のシチューはなんとか完食、野菜やジャガイモもかなり片付け、やれやれ食った食ったと思っていると、給仕がやって来て、さっきからなぜここに、と気になっていた傍らのアルコールランプに載せた鍋の蓋を開けてかき回し始めた。見れば、鍋の中には今食べたより多そうな量のシチューが湯気を立てている。
 彼は、この鍋ごと全部があなた方の分である、と解釈できるようなことを言いつつ当然のようにお代りをよそってくれようとする。それを断ってこの地に「日本人は情けない程小食」などという評判を残したらお国の恥、おもむろに頷くと、彼は深皿になみなみと注ぎ込んだ。連れ合いは肉一個分にしてもらった。
 そこからは艱難辛苦、なんとか食べ終えて部屋に戻り、横になると鹿を丸呑みしたうわばみの気分。しかし癖になる暴食、以降毎年同じ季節に出かけ、同じやり取りに重めのボルドーのボトルも加えてさらなる艱難辛苦を楽しんだ。

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