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「800字文学館」

ポーリング大明神に額づいていた頃

志村 良知

 学園紛争の嵐をかい潜って入学した大学で、一年生教養課程の化学を担当して下さった理学部の田中教授は厳しかった。最初の授業の時「諸君らは、将来化学で飯を食うのだから、その基礎を私がみっちり仕込んで差し上げます」と睨め回し、始業五分前に学籍番号順に着席している事、遅刻入室は許さない、試験は一回だけで追試は無い、と宣言された。その試験では、以前起きた集団カンニング事件で関係した学生全員を退学させたという伝説があり、単位を取るには勉強するしかないと観念させるに十分な迫力があった。

 教科書はポーリングの『General Chemistry』の原書。先生は熱烈なポーリング信奉者で、毎回ポーリングのサイン入りの『The Nature of the Chemical Bond』を携えて来て教卓に置き「これは諸君らの化学の修業を見守るポーリング大明神である」と称した。
「化学とは」で始まった先生の授業は、学生と先生との短い討論形式で進められた。先生は学生の答えの途中でも容赦なく突っ込んでくる。窮してもあがき続けると許されたが、あっさり「判りません」、と降参すると全員に経典たる『General Chemistry』のその件に関する記述の暗記が命じられた。それは次の時間、先生の気分次第で突然当てられるのでさぼれなかった。最初の時間の「物質とは何か」という設問では誰も先生を満足させる事が出来ず、クラスが全滅してしまった。
 答えるも地獄、答えられなくても地獄、先生と格闘するような授業に付いていく為に我々も勉強した。アジ演説と立看板の間を縫って早々に教室に入り、傾向と対策も練った。その成果もあって後期になると先生の顔も和み、ポーリングの来日講演の様子、逸話などについても話してくれるようになった。学生との議論においても、苦笑ではなく楽しそうに笑うことも多くなった。

 そして一年が過ぎて最後の授業。
「諸君らは私が出会った中で最高のクラスである。諸君らを教える事ができたのは教師冥利に尽きる。有難う」という思いもかけない言葉を頂いた。

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