作品の閲覧

「800字文学館」

長崎ぶらぶら(再訪)

平尾 富男

 脱会社人間を始めて間もない頃だから、「今は昔」の話である。
 友人が自分の出身地、長崎に誘ってくれることになった。長崎は新婚旅行で最初に立ち寄った土地でもある。頭の中を走馬灯のように思い出が駆け巡る。その長崎へ友人と二人だけで訪れると打ち明けると、妻の機嫌はすこぶる悪かったのを覚えている。
 それでも、晴れて自由の身となった自分への「ご褒美」なのだからと、有無を言わせず勝手にさっさと旅の支度に取り掛かる。長崎には遙か昔に、高校の修学旅行でも訪れているが、今回の訪問は自由人としての大人の旅立ちの記念行事でもある。
 通り一遍の市内観光を昼間の内に済ませた初日、お仕着せのお食事付き旅館では意味がないからと、予てから決めていたビジネスホテルに投宿の手続きをする。そして早々に、夕闇迫る丸山へと「ぶらりぶらり」繰り出した。
 歌にも唄われているではないか――

 遊びに行くなら 花月か中の茶屋
 梅園裏門たたいて 丸山ぶうらぶら
 ぶらりぶらりと いうたもんだいちう

 友人が用意をしてくれていた料亭のお座敷は、頼山陽が一時期を過ごしたという、手入れの行き届いた小さな庭に面した部屋だった。幕末には維新の志士達も花月に出入りしていたことは有名だ。その大広間に残された刀痕は、坂本竜馬のものと伝えられている。
 江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京の島原と共に天下の三大名所と謳われた不夜城でもあった。長崎に丸山がなかったなら、「上がたの金銀、無事に帰宅すべし」と、西鶴もその繁盛ぶりを『日本永代蔵』に記している。
 名女将手ずからの酒肴の接待と、花月ならではの伝統を重んじた卓袱(しっぽく)料理を堪能した。ほろ酔い上機嫌で一時の夢の宴を辞したが、「旅立ち」の最初の夜の終わりには早過ぎる。未だ未だ丸山辺りを「ぶらぶら」したい。友人の女友達が最近開業したクラブもある。
 留守宅の妻には、昼間訪れたグラバー邸の話題と好物のカステラを用意してあったから、遠慮は無用なのだ。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧