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「800字文学館」

新府 武田無念の城

志村 良知

 生家の北、約2キロのところに新府城址がある。
 天正3年、長篠で破れると「人は石垣、人は城」の甲斐国も物理的にも防備せざるを得なくなっていった。天正8年、勝頼公は真田昌幸に作事奉行を命じ、一年の工期で現在の韮崎市北部に城を築いた。織田・徳川連合軍の甲斐侵略ルートと想定された諏訪口から甲府盆地を守る位置のこの城は、甲府の古府中に対して新府と名付けられた。
 単なる山城ではなく、侵略軍を火力で食い止め、更にはそこから出撃して反撃することまで考えられた本格的な要塞である。しかし、城(要塞)は白兵戦での防御を前提にしてこそ城で、白兵戦に勝つには兵隊の頭数が必要となる。
 いざ織田・徳川連合軍の甲斐侵略を前にして、武田軍にはこの城を守るだけでも必要な二千とも三千とも言われる兵力は既になかった。防御できないと分かっている城に篭ってもそこで殺されるだけである。勝頼公は自ら新府城に火を放ち、二百人の一族郎党、四百人の臣下と共に大月の岩殿山を目指した。
 しかし途中勝沼付近で岩殿山の小山田の裏切りを知る。五十人足らずとなった武田一族は、笹子峠の北、天目山に消え去る。時に天正十年三月十一日。

 天目山に入ったのは、死に場所を求めたとも、真田昌幸の上州我妻の岩櫃城を目指したとも言われている。最後まで勝頼公に従い、追手の前に立ちはだかった土屋惣蔵昌恒の武勇は「土屋の片手斬り」と今でも甲州人に語り伝えられている。その兄で長篠の敵陣深くに散った右衛門尉昌續も、信玄公祭の武田二十四将武将行列で、扮したいという人が一番多いという人気者である。

 城址には藤武神社と云う神社が祀ってあり、毎年四月二十日の例祭の暴れ神輿が評判である。普段は無人で、松風が唸る深夜に勝頼公の廟をお参りする度胸試しは、その怖さ故に様々な言い伝えがある。
 井上靖の『風林火山』で、山本勘介が幼い諏訪四郎勝頼公に「あの丘に城を作りなさいませ」と薦めたのはここであろう。

(14 Mar 2013)

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