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「800字文学館」

長篠の戦い

志村 良知

 甲斐源氏、武田氏の滅びへの第一歩となったのは長篠の戦いである。戦い二日目、武田の騎馬軍団は、設楽が原で織田徳川連合軍の鉄砲三段撃ちの前に潰え去ったとされている。しかし先日、古今の戦術に詳しい人のお話を伺って長篠の戦いの解釈が変わった。

 当時の馬について。日本の軍馬は、肩高130センチ、体重3百キロ程度で、蹄鉄は付けていない。そんな馬に装備込みで百キロ近い鎧武者が騎乗して斜面を駆け回るのは無理である。西部劇の騎兵隊の突撃の様にはいかない。

 騎兵の集団戦闘について。日本では 牡馬を去勢しなかった。去勢してない牡馬を騒音と混乱に満ちた戦場で、騎乗して制御するのは困難である。『フロイス覚書』にも「日本では敵と戦う時は馬から降りる」とある。

 鉄砲三段撃ちについて。火縄銃の操作は極めて複雑煩瑣である。突撃破砕を三千挺三段撃ちという、近代軍の2個連隊規模相当の集団機動で行うには、ピラミッド型の指揮系統の下、長期の訓練が必要である。フロイスは「日本の軍隊には、軍組織も階級もない」と書いている。すなわち戦国の軍勢は大軍といえども、名ある将の私兵の集まりの文鎮型組織であった。専従兵から成っていたという織田徳川軍でも、近代軍類似組織の下に集団機動訓練したという記録も伝承もない。

 武田軍の戦術。まず野戦築城要所に鉄砲の一斉射撃をしかける。防御軍のひるんだ場所に騎馬隊と歩兵の密集集団が移動し、そこから敵陣に侵入する。更に新たな突破口を増やし、同様の軍勢を送りこみ、と連続的に敵陣に広く深く侵入して接近戦を挑む。
 しかし、陣地内で白兵戦となると頭数がものをいう。武田の攻撃軍は6千、織田徳川軍は1万8千。頭数も、鉄砲を含む火力も劣勢の武田軍は織田徳川軍の縦陣防御の中で、機動も増援もままならないまま激闘8時間、時間と共に包囲せん滅されていった。信玄公以来の多くの将を失った武田軍は、以降兵力回復不能となり滅亡へと向かった。

(22 Feb 2013)

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