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「800字文学館」

大津京の万葉カレンダー

大月 和彦

 ある大学の社会人講座で万葉集を聴講していて、大津京を詠った歌にちなんだカレンダーを購入した。
 ずっと万葉集の絵を描いている大津市生まれの日本画家鈴木靖将画伯の作品。「大津京 秀麗より」の題で、近江の歌だけが選ばれている。

 大化の改新を成し遂げ、律令政治体制を作った中大兄皇子は、都を近江大津に移し、即位して天智天皇となる。
 湖畔の地に豪壮な宮殿が建ち並び、唐や半島からの渡来人が多い国際都市でもあった。近江の都または志賀の都と呼ばれ、天皇の長男大友皇子と大海人皇子が皇位継承を争った壬申の乱までの5年間都だった。

 万葉集の初期に当たり、額田王や柿本人麻呂など近江を詠った名歌が多く生まれている。天智天皇や大海人皇子、その皇子皇女の歌も多い。
 カレンダーには、大津京が華やかだった頃の万葉人(びと)のいる風景の絵が六枚載っている。

 表紙裏には額田王の「あかねさす紫野行き標野行き・・」の歌。
 近江の蒲生野で、弓を手に馬に乗って鹿を追う男たちやきらびやかな衣装をつけた女性たちが薬草や草花を摘み、茜色に輝く春を楽しんでいる様子が描かれている。

「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」。人麻呂のこの歌には、ふっくらした丸顔の采女たちが森の中で楽器を奏でて廃都を懐かしむ光景。
 壬申の乱を予兆し、吉野行きを思う憂い顔の大海人皇子の絵も。
 鵜野讃良(後の持統天皇)が、大津皇子などの皇子皇女が野原で無邪気に遊ぶのを見ている絵には、大津皇子の姉大伯皇女が悲運の弟を思う歌が書いてある。
 最後のページは、亡き天智天皇を偲ぶ倭大后の歌に、天皇を囲んで倭大后、額田王と大化改の功臣藤原鎌足が紅葉の下に立つ絵が添えてある。

 近江の都はずっと「近江京」と表記されていた。明治になって「大津京」とも記されるようになったが、異説があるという。
 大津市の人は「大津京」に郷愁を感じている。四年前に市民の働きかけで湖西線の「西大津」の駅名を「大津京」に変えたという。

 このカレンダーも古都大津京への強い思いがこめられている。

(12・12・19)

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