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「800字文学館」

「トム」と出歯亀

野瀬 隆平

 イギリスに、こんな話がある。
 今から千年ほど前、コベントリーという町でのことだ。この土地の領主であるレオフリック伯爵が民に重税を課し、領民たちは苦しんでいた。伯爵夫人のゴダイバは、そのことにとても心を痛めていて、税を軽くするように何度も夫に頼んだが、聞き入れてもらえない。
 あるとき、伯爵は妻をからかってこう言った。
「そんなに税を軽くしてほしいのなら、裸で馬にまたがり、町中を乗り回してこい」と。
 この言葉を聞いた伯爵夫人は、なんと実際に裸で馬に乗って、町中を廻ったのである。さすがに、夫の領主も妻の願いを聞き入れざるを得ず、税を軽くした、という話である。
 コベントリーの町の人たちは、彼女の勇気ある行いに感謝して、窓を閉め切って、夫人が屈辱を味わうことが無いようにした。ただ一人だけ、トムという仕立屋の男が、裸の姿を盗み見て、そのために盲目になった。ここから、覗き見を表わす「ピーピング・トム」という言葉ができたという。
 あくまでも伝説であり、史実かどうか疑わしいところが無きにしもあらずであるが、ゴベントリーの町には、裸で馬にまたがるゴダイバ夫人の銅像が立っており、単なる作り話とは思えない。
 日本では、覗き見する輩を「出歯亀」といって、さげすまれている。これは、ご承知の通り、明治の終わりころに池田亀太郎という出っ歯の植木職人が、銭湯帰りの若い女性を殺害した罪に問われる事件があり、その男が女湯を覗く常習犯であったことに由来する。

洋の東西を問わず、ご婦人の裸を覗きたくなる男はいるもので、イギリスでは覗かれた方も覗いた方も歴史に名を残し、日本では覗いた男だけが悪名高き者として名を残している。
 蛇足ながら、この伯爵夫人は多くの美術や文学のなかに生き続けており、ブランド名としても使われている。裸で馬に乗った話を知らない人でも、ベルギーの高級チョコレート、「ゴデイヴァ」の名はよく知っている。

『驚きの英国史』 Colin Joyce著 森田浩之訳

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