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「800字文学館」

ピレネー・アイリス

志村 良知

 奇跡の泉で有名なルルドから北上すること40kmあまり、道がピレネー山脈にぶつかって消える所に、シルク・ド・ガヴァルニーというピレネー随一の景観がある。標高差1000mを越える絶壁が、数キロに亘って弧を描いて屏風状に連なり、崖のあちらこちらから大小の滝が落ちるカール(氷河が形成したお椀状の谷)である。
 駐車場からは、約五kmの緩い登り、絶壁が常に正面に見える絶景の中のハイキングでカールの谷底に着く。谷底の標高は1570mで夏でも雪が残り、周囲に無数に落ちている滝からの風も相まって非常に心地良い。

 夏のアルプスやチロルのハイキングの楽しみに高山植物がある。標高1500mを越える辺りでは、5月末の雪解けから九月初め頃までそれぞれの花期を謳歌するように咲き乱れる。スイス某所では今や貴重という野生のエーデルワイスを見つけたこともあった。
 花が、平地のあやめ程もあるというピレネー・アイリスは、アルプスにも咲くというが、まだ見た事が無い憧れの存在で今度こそ見られるかもしれないと期待していた。

 ガヴァルニ―の谷底で弁当を食べ、帰りはアイリスを探しながら行こうと、きつい斜面を横切りながら下る遠回りの道を選んだ。最初少し登り、すぐオータム・クロッカスが咲く見通しの良い草原に出た。
 しばらくすると下草が少し伸びた湿地となった。「植物図鑑だとピレネー・アイリスはこういう所にあるらしいね」と連れと話したとたん、急斜面の草の中に鮮烈な青い点々が見えた。
「やった!。ピレネー・アイリスだ」

 大きな青いあやめが、ちょっと大げさに言うと、広い斜面一面に散らばって咲いていた。余りに簡単かつ大量に咲いているのが見つかったので本当かと疑ったが、こんな標高の高い場所に平地のあやめがあるわけがないからピレネー・アイリスに間違いない。
 急に緊張が解け、更に探して歩く気力が失せた。相談一決、ガヴァルニーに引き返し、心浮き浮きと帰途についた。

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