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「800字文学館」

渋沢栄一の生家を訪ねて

池田 隆

 渋沢栄一は数々の立派な企業を育て上げ、日本資本主義の父と呼ばれる。他の財閥創始者と異なり、自由競争の下でも私利を追わず、公益を図った。商業教育や女子教育に注力し、生涯にわたり養育院の運営にも当った。
 昨今の経済界トップの公徳心不足、倫理観欠如を見るにつけても、実績を伴う彼の道徳経済合一説に改めて敬服する。

 秋の好日、渋沢栄一の生家などを巡るバスツアーに参加してみた。同行の渋沢研究会のメンバーや生家など訪問先の説明員の話を聞きながら、私は彼の成育歴に思いを馳せていた。
 栄一は深谷近くの血洗島村で生まれた。当時は藍玉生産と養蚕が主要産業の地域だったが、さほど特異な風土ではない。
 彼の父、市郎右衛門は藍玉の製造販売を行う小農家の婿となるが、一代で家業を村有数の豪農に発展させた。栄一は父の仕事ぶりを見ながら育ち、青年期は自らも藍葉の仕入れから藍玉の出荷までの家業を手伝った。
 市郎右衛門は教養人で儒教(陽明学)を生業の心得としていた。栄一は従兄の尾高惇忠から論語や水戸学を学ぶが、惇忠に手ほどきしたのは市郎右衛門である。
 母の栄は近所の癩病人を懇ろに労るなど慈悲深く、子煩悩な人柄であった。
 長じて旧来の体制に疑問を抱いた栄一は尊王攘夷の志士を目指すが、一橋家の用人、平岡円四郎に才能を見出され、徳川慶喜の家臣となる。
 戊辰戦争時には幸運にも徳川昭武のパリ万博随行員として欧州に滞在し、先進社会をつぶさに観察する。中でも小資本を多数集めて、大事業を行う株式制度に彼は最も感動する。同時に儒教と同じような倫理がその経済制度の大前提であることに気づく。父親の家業心得や彼自身の家業体験がそれを容易に気づかせたのであろう。
 父からの道義心、母からの慈悲心、従兄からの歴史・国家観が渡欧時の経験で裏付けられ、確乎たる彼の信念となる。帰国後は広い視野と現実主義的な仕事ぶりで大実業家に成長するが、常にこの信念を持ち続けていた。

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