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「800字文学館」

奈落の底へ

池田 隆

 高速道路を運転中に急激な眠気に襲われた。つぎのサービスエリアまで目を開け続けようと頑張るが、瞼が自然と閉じてくる。危ない! 何とかしなければ! 全身汗でびっしょりの感覚。朦朧となりながらも路肩に寄せ、速度を落とそうと気が焦る。しかしハンドルを握る手にも、ブレーキを踏む足にも力が入らない。
 意識は有るのだが、身体がまったく言うことを効かなくなった。嗚呼、俺もこれまでか! 妻や子、孫の顔が一瞬浮かび、大きな黒い渦のなかに消えていく。ついに防音壁か何かに激突して終わりだなと覚悟も決まり、身を任して奈落の底に吸い込まれていく。死ぬとはこんな事だったのか。

 だが何事も起こらない、静かだ。目を開けようとするが、やはり思うに任せない。手足は少し動く。猛烈な暑さに包まれ、激しい息づかいが自分でもよく分る。痛くはないが、身体全体が締め付けられる。やがて少しずつ瞼を押さえつけていた重みが薄れてきた。
 薄目を開けてみた。ぼんやり浮き上がって見えたのは見慣れた居間の天井である。おかしい、意識を失っていたのか。
 それとも…?
 やがて頭がだんだんすっきりしてきた。早朝からオリンピック放送を観たので昼間から眠くなり、ソファーで横になったことを思い出す。夢だった! それにしても命拾いをした。着ているシャツもぐっしょりである。

 七十代も中盤に入り、親父の享年も超し、何時死んでも不思議ではない。心臓の冠動脈はステント四本で拡げてあるが、今度は頸動脈か脳血管が詰まるかも知れない。そんな日頃からの懸念に、今朝のニュースで脳梗塞の前歴をもつ大型バスの運転手が東北自動車道で大事故を起こしたと報じていた。夢の因果関係も分ってきた。
 思い出していくと、寝つきながら次の企業OBペンクラブのエッセイに何を書こうかと考えていた。そうだ!と元気に飛び起きる。見たばかりの夢での意識と感覚が頭から消え失せないうちに、パソコンへ向かい必死にキーを叩き始めた。

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