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「800字文学館」

奥鬼怒手白沢温泉

稲宮 健一

 五月末、後期高齢まじかの十五名が東武浅草駅に集合した。恒例の三菱電機鎌倉地区の同期会の旅行で、今回は奥鬼怒手白沢温泉である。定年後ゆっくりずむで旅行を楽しもうと、年に二回少し人里を離れた『秘湯の温泉』を渡り歩いて旧交を温めている。もうこれまで、十指に余るほどの探索をしたが、そろそろこの旅も打ち止めにしようか、有終の美をどう飾ろうかなど皆から漏れて来る。

 朝十時、特急スペーシア発車、個室から東京スカイツリーを横に眺めながら、二時間程の乗車で鬼怒川温泉駅に到着。早速地酒と絶品の山菜のてんぷらと蕎麦でわいわい騒ぎながらお昼を堪能した後、貸切ジャンボタクシーに乗車した。普通は女夫渕温泉までバスで、次に二時間の徒歩の道のりを今回はタクシーで楽をして、目的地に向かった。

 この温泉宿は見渡す限りのぶなや、ならの原生林の谷間にある一軒家である。外観は山小屋風だが、いや、中に入ると太い柱、梁、高い天井、厚い板、木の香りとぬくもりを感じるがっしりした贅沢な木造りで、昭和十年開業、十七年前に建て替えられたとのこと。
 まず温泉だ。露天風呂の眼の前は新緑の雑木林、下に谷川が見え、渓谷を流れるせせらぎの響きが心持よい。目を少し遠くに移すと、日光白根に繋がる根名草山の尾根の岩肌がむきだしになって見え、山頂から下に伸びている沢にはまだ雪が残っている。天気の良い午後、山を仰ぐ新緑の中の湯にどっぷり体を沈めた。
 夕食は総て山の幸である。山菜、岩魚、鹿の切り身、ビールで乾杯、それに続く地酒が奥山の雰囲気をかもしだす。広い食堂で、話に花が咲いた。
 食後、持ち寄りの酒類と共に、一室に集まりかつての職場や、これまでの旅のことなど、時間の経つのを忘れて騒いだ。昔仲間は気が置けないね。十時を少し過ぎるとお開きだ。以前は、夜更けまで飲んでいたが、やはり酒量も少なくなってきた。
 ここにテレビはなく、携帯も圏外、静かに夜が更けていった。

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