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「800字文学館」

大久保利通の日記から 木戸孝允へ漢詩を贈る

大平 忠

 政治家の日記をそんなに読んだわけではないが、大久保利通の日記を読むと、ぶっきらぼうで、およそ面白くない。何時に家を出てどこへ行ったか、何時に帰ってきて夜誰が来たかという記述が延々と続く。出来事や人に対する自分の思いとか、感情の吐露が少ない。 その淡々とした日記の中でも、ふと目にとまる箇所がある。

明治2年10月29日
(木戸ヲ説得)
 ……木戸ニ至誠ヲ以示談薩長合一之根本屹尽力致候方当分 モ 朝廷之御為メ可相成存込候間……
 明治3年1月14日
(木戸ノ新邸ヲ訪ヒ詩を賦ス)
 風流本自屬君堂
 名嶺入窓水繞廊
 誰識幽情此裏味
 老梅花上月明香
 明治3年2月24日
(久光公新政二平ラカナラズ)
……御激論ニ相成……夫形召置候方却 可然……

 これらの日記は、日付は少し飛んでいるが、3箇所を続けて読むとなるほどと思う。
 この頃、明治新政府の基盤は脆弱であった。大久保と木戸は薩摩・長州から新政府に対しさらなる強力な支援を得ようと、藩主のもとへ説得に出向く。大久保は、そのため木戸との一致した行動がなによりも大事だった。そこで、長州へ赴いたときに、木戸の新邸を祝いに訪れ、漢詩を献じたものである。大久保の日記に和歌はときどき出てくるが、漢詩は極めて珍しい。よほど木戸に対しての思いが厚かったものと見える。大久保は薩摩へ行き、島津久光と会談するも「激論」で終わり、協力は得られなかった。この年の12月、今度は岩倉具視が薩長へ赴いての説得が漸く実り、西郷の上京、次いで親兵の創設が決まった。しかし、大久保は薩長に頼りつつも、軸足を踏み替え、新政府は天皇の政府、官吏は天皇の官吏、親兵は天皇の兵であると、天皇による権威づけに一層力を入れていく。
 戦前、高級官僚が勅任により任用されて勅任官といわれ、閣下と呼ばれたのも、明治初期の官吏権威づけの名残りなのであろう。戦前の、誇りも高く頭も高いお役人を作った源流に大久保利通がいたのは間違いない。

(平成24年6月13日)

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