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「800字文学館」

落し子

中村 晃也

 韓国の首都ソウルから南に四、五十キロの地点に水原という町がある。今では世界遺産に指定された水原華城や韓国民族村などがあり、観光の中心となっているが、私が二人の部下と訪れたのは四十年前、韓国では鮨屋でも麦飯の寿司を出していた頃である。

 夜、知人のおなじみの酒場で、水原にまつわる話を聞いた。
 十八世紀末に朝鮮王朝の第二十二代の国王世祖が、亡き父の墓所を水原に移設し、同時に水原華城を建造した。城は二ヵ年で完成したが、動員された民衆は過酷な労役を課せられた。この酒場の辺りは当時の労務者の宿舎で、過労で死んだ人たちの亡霊が今でも出没する、というような話だった。

 知人と別れて粗末な宿屋に戻った。柱は傷だらけだし、床は歩くとミシミシ音を立て、いかにも何か出そうな感じだった。はたして…。
 夜中寝苦しくて眼が覚めた。足元にうずくまっていた何かがするすると胸元まで上がってきた。気がつくと眼前に頭巾を被った小さな顔があり、見たことがあるような大きな目でこちらをのぞきこみ、小さな手を伸ばして布団の襟元を掻きむしる気配である。
 てっきり昨夜聞いた亡霊が出たのかと、思わず上半身を起こした。そして恐ろしさのあまり「南無阿弥陀仏」と唱えながら辺りを見回したが、それはもう消えていた。

 二人の部下との朝食の際、早速昨夜の出来事について報告した。
「どうやら家で可愛がっている猫が、毎朝掛け布団に上がってくるので、その夢を見たのだろう」と解説し、自分でもそう納得したつもりだった。

「いや、中村さん、それは猫じゃないですよ。きっと中村さんの落し子が懐かしくて出てきたのですよ」とAがいえば、すかさずBが「そういえば以前中国に行った時にも、中村さんにソックリの子がゴロゴロしていましたよ」と云う。
「待てよ? 中国でそんなことがあったかなあ?」と考える暇もなくAが言った
「Bよ、それは中村さんに失礼だよ。いくら似ていてもこの人から豚は生まれないよ」

二十四年 五月

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