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「800字文学館」

菅江真澄、松前に渡る

大月 和彦

 江戸時代旅行家菅江真澄は天明8年(1788)35歳の時、蝦夷松前に渡り、寛政4年(1792)で4半滞在した。この間、北海道南部の江刺、函館、有珠山などを歩き、アイヌや和人の風俗習慣、地勢景観、生活を観察し、『えみしのさへき』、『えぞのてぶり』などの旅日記に詳しく記録している。
 出羽、津軽、南部などを歩いたあと「蝦夷人のふりも見まほしうこの海のことなう渡らん日はいつの空か・・・」と願っていた渡航だった。

 はるか海の向こうに蝦夷の陸地が見える津軽半島三厩の宿で船待ちをする。3目にヤマセが吹き始めたので舟に乗る。帆縄を上げて、舟みち七里という海峡へ出ると舟は竹の葉のように高波にもまれる。船酔いに伏せているうちに夜明け前に松前の港に入った。
 当時の松前は西廻り航路の交易が盛んで、問屋などが軒を連ね松前三千軒といわれるほど繁栄していたという。

 松前藩は他国人の出入りを厳しく制限していた。一介の旅人だった真澄も沖の口番所で怪しい人物とされ、送りかえされそうになった。この時詠んだ歌「おもひやり便りも波の捨て小舟沖にたゆようこころつくしも」がきっかけで藩医と知り合い、上陸を許された。その後は藩主の継母松前文子に重用され、重臣たちと歌を通じての交流が続いた。

 松前城下での記録はほとんど残っていない。
 北海道最南端のこの町は、海にせり出した台地に戦後復元された三層の天守閣がそびえ、桜で知られる公園がある。中心街は建物が黒い瓦と白壁で統一され城下町らしい落ち着いた雰囲気だ。海岸沿いの街道には商店街が続くが閉散としている。町の中心部に沖の口広場がある。真澄が取り調べを受けた番所があったところ。「菅江真澄の道―松前上陸の地」の木柱が建っていた。

 城の背後の丘陵が寺町と呼ばれる一帯で江戸時代に建立された寺社が並んでいる。真澄が住んだといわれる阿吽寺や松前文子が祀られている龍雲院も深い木立の中にたたずんでいた。

(12・5・25)

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