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「800字文学館」

『姫街道』を行く

清水 勝

 四年前に江戸から京都に向かって旧東海道を仲間と歩き終えました(『悠遊』第16号に掲載)。その際に気になっていたのが東海道の脇街道で、その名も姫街道といわれるものでした。姫が通る街道だから歩きやすいのだろうと思って今回気楽に歩いてみました。
 姫街道は見付宿から気賀宿そして浜名湖の北側を通って御油宿まで60キロの道です。我々は新幹線の関係から浜松駅をスタートし浜松追分経由で気賀~和田~御油まで、豊川稲荷等の寄り道もあって約58キロを2泊3日で歩きました。
 姫街道が幕府の御用道として利用されたきっかけは宝永4年(1707年)の東海沖地震により新居宿一帯が大被害を受けたためだそうです。地震にまつわる話として、明応7年(1498年)の東海地震で旧新居町にあった角避比古神社が流没し、ご神体は津波で流され、細江町気賀に漂着したそうです。そのご神体を祀っているのが気賀宿の近くにある細江神社で、今や地震厄よけの神社として有名とのこと。我々も地震のない日本をと賽銭を奮発してきました。
 さて、姫街道を通った人としては8代将軍吉宗の生母浄円院や篤姫そして享保14年(1729年)には上覧のための象が通ったということで、急坂の続く引佐峠には象鳴き坂がありました。象が険しい坂で鳴いたようですが、我々もこの石畳には泣かされました。さらに坂はこんなものではないゾウとばかりに次には本坂峠がありました。
 姫街道とは名ばかりで、そんな軟なものではありませんでした。それでも女性が通ったのは東海道の新居関所が婦女子の通行に厳しかったためと、新居と舞阪の間は今切の渡しを利用しますが、その今切という言葉を女性が嫌ったために険しくともこの姫街道を利用したようです。
 姫街道は以前歩いた中山道にもあり、難所である碓井峠を避け、本庄宿から分岐して下仁田を通り、軽井沢の先にある追分宿に合流する百キロ程の街道です。次回の挑戦となる予定です。

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