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「800字文学館」

「ニコライ堂」と土佐藩士・沢辺琢磨

都甲 昌利

 昨年は東京・神田の「ニコライ堂」を建てたロシア正教のニコライ大主教が来日して150年目であった。
 これを記念して「宣教師ニコライの歩んだ道」と題する講演があり拝聴した。

 ニコライの歩んだ道は非常に波乱に富んでいるが、その中で土佐藩士の沢辺琢磨との出会いと二人の関係のエピソードが面白かった。
 1861年、ニコライは函館のロシア総領事付属聖堂の司祭として来日し、布教のため函館・聖ハリスト教会を建てた。日本は幕末の騒然とした時期である。一方、沢辺琢磨は土佐藩の郷士の子として生まれ、武術に優れ江戸に出て鏡心明智流剣術道場で腕を磨く。ある晩酔った勢いで罪を犯す。訴追を逃れるために函館に逃れる。江戸脱出の手助けをしたのが坂本竜馬や武市半平太であった。実は琢磨と竜馬は従兄弟同士で、琢磨の母は半平太の妻の叔母に当たる。身内同士の助け合いである。

 函館に着くと持ち前の剣術の腕を見込まれ、土地の名士と知り合いになり道場を開く。攘夷論者だった琢磨はニコライが日本侵略のスパイではないかと疑い、殺害しようとロシア領事館に赴く。琢磨はニコライに来日の目的や日本研究の意図などを詰問した。ニコライは琢磨の質問に理路整然と答え、「ハリスト正教の教えを知っているか」と問うた。「知らない」と答えると「ハリスト正教が如何なるものかを知ってから正邪を判断するのでも遅くはない。殺すのはその後でも間に合う」と諭したという。
 確かにそれも一理あると考えた琢磨は、それからニコライのところに日参し教えを学んでいくうちに教義に目覚め、ニコライによって洗礼(パウロ)を受けて日本最初の正教徒となった。
 琢磨はその後、日本人初の司祭となり、ニコライを援助し1891年念願の東京・神田に「ニコライ堂(東京復活大聖堂)」を建立する。
 竜馬は31歳で暗殺され、半平太は37歳で切腹自害。琢磨はニコライ大主教が1912年に永眠すると後を追うように翌年78歳で天に召された。

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