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「800字文学館」

むつ川内川の渡し守(続)―松栄丸漂流記

大月 和彦

 下北半島を歩いていた菅江真澄が川内村(むつ市)の渡船場に来た時、唐に漂流した後帰国して渡し守をしている男に会った、と旅日記に書いている。
 真澄研究家は、この稀有な体験をした船乗りは、川内村の利八郎であり漂流したのは松栄丸であるとしている。

 在野の文化史家石井研堂のコレクションから出版された『江戸漂流記総集』(石井研堂これくしょん 日本評論社 1992年)によると、利八郎が乗った松栄丸(七百石積み)が難破漂流し、中国海岸に漂着し、帰国した顛末が記されていた。

 松栄丸には船頭の南部領蠣崎村の善吉(四八歳)をはじめ南部、出羽、越後、松前出身の一四人が乗り組んでいた。天明八(1788)年11月、サケの塩引、干タラ、干しナマコなどの海産物を積んで江戸に向けて出帆した。冬の日本海航路を避け津軽海峡から太平洋へ出る東廻りル―トをとった。

 途中八戸沖で暴風雨に遭う。帆柱が折れ、櫓が壊れ、碇が切れたまま160日間漂流した後、中国(清国)広東省に漂着し、2年後に長崎に送り帰されたという海難事件。
 途中3人が病死し、帰国できたのは船長ら11人。真澄が川内川で会ったのはこの中の1人、南部領田名部川内村の水主の利八郎(38歳)だった。

 帰国後、長崎奉行所で申したてた「私共儀唐国え漂着仕り候処…」で始まる吟味書は長い漂流の体験をくわしく伝えている。

 出帆の翌日、暴風で船が破損し漂流が始まる。身命限り垢水を汲む。乗組員は髪を切り、脇差小刀などを海中へ投げ入れ、仏神に祈った。飯は一日一椀、跳びこんだ魚を食べ、雨水をため喉をうるおした。
 陸地が見えたころ海賊船に襲われ、弁髪の男たちが乗りこんできて積荷の残りや米、銭を奪われる。
 まもなく小さな港に漂着する。陸路で広東省の役所に送られ、取り調べを受ける。さらに浙江省に移され、貿易商の家で待機した後、長崎に向かう清国船で帰国した。
 長崎奉行所では、キリシタン宗門、武具や金銀の保持などが調べられた。

 真澄が会った利八郎以外の乗組員のその後の消息は分からない。

(12・2・23)

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