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「800字文学館」

むつ川内川の渡し守

大月 和彦

 江戸時代の旅行家菅江真澄は、寛政年間に下北半島の先端部から津軽海峡沿いに歩いていた。陸奥湾に面した港町川内(むつ市川内地区)に来ると広い川があった。
 渡し舟が寄ってきたので乗ると渡し守が話すには、自分は東廻り廻船のかじ取りだったが江戸へ向かう途中、漂流して唐の国に漂着し、近年ここに帰ってきた。その罪に問われている間は大きな船に乗ることが許されないのでこんな川舟の船頭をしていると嘆いていた。
 真澄はこの稀有な体験をした渡し守の話を書き留めている。

 漂流した船は、天明8年に蝦夷松前から海産物を積んで江戸に向かった松栄丸(七百石積み)で、途中八戸沖で暴風に遭い、160日間の漂流の後中国の海岸に漂着した。一年後乗組員は長崎に送り返された。その中の一人が川内出身の水夫で、川内川の渡し守をしていたことが真澄研究家により判明している。

 一月中旬の寒波が襲った日に、むつ市川内地区へ行った。本州最北端のJR駅大湊からバスで陸奥湾に沿って西に向かう。海沿いに海上自衛隊大湊統監部の建物群が見える。
 吹雪の中を30分、川内の中心街にある「町の駅」に着く。国道沿いの商店街はみんな戸を閉ざしている。
 市役所川内庁舎で川内町史を見せてもらう。220年前の漂流民の記録は見つからなかったが、川内川の渡しが明治中ごろまであったことが分かった。渡船場規則に「渡船場ニ渡守一人ヲ置キ渡船ニ従事セシム、渡船賃人一人一銭、牛馬二銭、渡守ヲシテ収受セシム」とある。
 市街地を二分して流れる川内川は意外に大きく、川幅は80mぐらいか。国道に架かる川内橋のたもとに渡船場があったのだろう。

 真澄が「この山奥に湯の川といってよい温泉がある」と書いた温泉に向かう。吹雪く山道を15㎞、半島中央部、恐山の西にある山間の秘湯に着く。50人の集落。観光客は夏でも来ませんよとドライバーはあきれていた。
 宿の温泉は豊富で熱い。夕食に赤黒い肉が出た。柔らかいが臭みがある。宿の主人が北海道で獲ってきたエゾ鹿だという。

(12・2・10)

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