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「800字文学館」

技術者 土光 敏夫氏を偲ぶ

池田 隆

 鎌倉の丘を散策中、安国論寺の境内で偶然にも土光敏夫氏の墓を見つけた。氏は人生の師とも仰いだ大先輩である。生前を思わせる質素な墓碑に向い、静かにひとり手を合わせる。
 氏は大正九年より石川島造船所のタービン部門(現東芝タービン部門)で技術者として活躍する。戦後はIHIや東芝の社長として辣腕を揮う。さらに経団連会長となり、オイルショック後の日本経済を立直し、第二次臨調会長として三公社(国鉄、専売、電々)の民営化を行った。
 徹底した合理化精神から「ミスター合理化」とか、猛烈な働きぶりから「剛腕タービン」と呼ばれた。清貧な日常生活で、「メザシの土光」としても有名である。
 私が東芝のタービン技術者となり、まだ間もない頃に氏が自社の社長となられた。雲の上の方であるが、出身部門の後輩たちは喜んだ。
 私たちは氏が戦前にGEへ出張した時の報告書をよく参考にしていた。そこに「過飽和蒸気流という蒸気タービン特有の現象が未解明である」との一文がある。
 戦後、原子力タービンが新に出現し、この現象解明がとくに重要課題となった。しかし氏の報告時点から三十年を経過した当時も進展がなく、欧米で大勢のタービン技術者が研究を競っていた。
 私もその研究の一端に加わり、幸運にも現象の可視化に世界で初めて成功した。上司が喜んでくれ、私を連れて社長室へ報告に行った。氏は経営や管理の件では上司たちをよく叱っていたが、私の技術説明に対しては熱心に耳を傾けられた。その時の嬉しそうな顔つきが頭に甦る。当時の氏は原子力技術の自主開発と国産化に殊のほか注力し、「GE、GEと蝉のように鳴くな」と周りを叱咤していた。
 経団連の会長になってからも朝早く私たちの工場に立ち寄り、設計図面や実物を見ては問題点を細かく指摘された。終生自ら技術に愛着を持ち続け、私たちに技術者魂を植え付けた。改めて墓前で氏の名言を思い返す。
 「人は言葉だけでは動かぬが、自ら実行すれば動き出す」

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