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「800字文学館」

感傷旅行

富岡 喜久雄

 古希を過ぎると気が急くのは何故だろう。遣り残しがあるのに時間が足りないような切迫感を感ずるのだ。そして元気だった昔が懐かしく、旅に出たくなる。旅は気楽な独り旅が一番好い。勝手が出来るからである。一昨年末にはシンガポ-ルを訪ねた。近在の家のクリスマス飾りが、日本とは比べ物にならないほど絢爛な彼の地のイルミネ-ションを思い出させたからである。いつもの様に一人旅をと思ったが、危険だというので無理に気の進まぬ妻を説得して同行させた。
 久しぶりのチャンギ空港は変っていなかった。最近の空港は鉄骨の骨組を露出させ機能美を見せる作りが多いが、ここは旧式なコンクリ-ト造りが逆にどっしりとした落ち着きを与えてくれるのが嬉しい。発着階からイミグレ-ションまでの階段はそのままだったし、天井から吊り下げられた「歓迎光臨」の大垂れ幕こそなかったが、そこかしこに見覚えがある。十二月だというのにビル内は冷房が効いて蘭の花がいっぱいだ。
 入国審査を経て荷物チェックをすませると、ガラス戸の向こうに出迎えの人々が大勢待ち構えている。赤いポロシャツの男もいる。それで、嘗て私も赤い大判のタオルを目印に肩にかけ、定期的に通ってくる家内を迎えていたことを思い出した。小柄の妻も目立つようにと、派手目の衣装で来るから遠目では若く見え、今どきのギャルかと見違えたものだった。
 深夜着だったのに、外に出るとむっとするような熱気が迎えてくれる。ホテル差し回しの専用バスに乗り込み、市街に向かえば、ブ-ゲンビリアの赤い花が照明に映えて美しい。
 明かりの切れ目で、ふとバスの窓をみると外を覗く妻の顔が映っている。思わず私は
 「老けたな」と呟いた。
 「私のこと」窓に映った二人の顔を見て妻が言った。
 「十年は誰にも十年なのよ。自分だけ若いつもでしょ、それがあぶない」
 のんびりした二人旅を期待したのに、やはり一人旅にすればよかったと反省し、これから先が思いやられた。

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