作品の閲覧

「800字文学館」

山のロザリア

西田 昭良

 車体を赤く塗った貸し切りバス「あかいくつ歌声号」が横浜市内を巡っている。みんなで歌を歌いながら市内に点在する名所を訪ねる、という老人向けのたわいないツアーだ。
 歌好きの女房がどこからか見つけてきて、誘われた。あまり気乗りはしないが、たまには女房の誘惑にでも乗ってやろうか。
 それに、大桟橋や赤レンガ、外人墓地や美空ひばりの生家など、市内の名所は点では知っているが、どうしても線には結びつかない。いい機会だ、との思いも手伝って腰を上げた。
 ガイドの観光案内や歌のリードに乗って、バスは市内をひたすら走る。窓からの風景や名所を頭の中で線に結びつけているけれど、途中で歌が入り、そのたびに中断される。まあいいや、欲をかかず今を楽しもう。隣の女房はいい気持ちで歌っている。
 バスには乗ったが雰囲気に乗れない私。聴き飽きた歌謡曲やつまらぬ童謡。しかし、それらに混じって「浜辺の歌」、「荒城の月」、滝廉太郎の「花」や「エ―デルワイズ」などが登場してくると、徐々に私は若返って行った。
 やがて、学生時代に足繁く通った「歌声喫茶」のコーナーに入るや、私は完全に青春時代に戻っていた。
 中でも、「山のロザリア」。
 『山の娘ロザリア いつも一人うたうよ
 青い牧場日昏れて 星の出るころ
 帰れ帰れも一度 忘れられぬあの日よ
 涙ながし別れた 君の姿よ』
 2番、3番と進むにつれて私の目頭は熱くなり、かすれ声で『帰れ帰れも一度』と遠い昔の我が青春に呼び掛けているのだった。
 数日前に宣告された病の再発が滲む涙と共に郷愁を増幅させていた。それを堪えて、隣に覚られぬよう窓側に顔を寄せながら歌った。
 気乗りしなかったバス・ツアーが、奇しくも、成るようにしか成らぬ、というすっきりした思い切りを贈呈してくれた一日だった。
 たまには女房の誘惑に乗ってみるもんだ。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧