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「800字文学館」

サムトの婆―遠野物語より

大月 和彦

 遠野地方に伝わる神隠しの話である。
 たそがれに女や子どもが外に出ていると神隠しにあうという話が各地にある。

 ある日、遠野郷の松崎村寒戸の民家で、若い娘が梨の木の下に草履を脱いだまま行く方がわからなくなった。
 30年経ったある日、親類縁者が家に集まっているところへ、老いさらばえたその女が帰ってきた。どうして帰って来たのかと聞くと、人々に会いたかったからと言い、すぐ、さよならと言ってどこかへ行ってしまった。
 その日は風の激しく吹く日だった。遠野の人々は今でも風の騒がしい日にはサムトの婆が帰ってきそうな日だと言っている。(第八話)
 風の強い日に、親戚が集まっているところへ姿を見せ、すぐ行ってしまうのが神隠し話のパターン。

 神隠しにあった場所は遠野の中心から自転車で20分ばかりの田園地帯にあった。盆地を南流する猿ヶ石川沿いの遠野物語に何回も出てくる松崎という集落のはずれ、堤防に沿ったサイクリングロードの脇に「サムトの婆」の標柱が建っていた。山男、山女、天狗、狼などの怪奇談が伝えられる早池峰、六角牛など山がよく見える所だった。寒戸という村は実在しないという。近くの松崎町白岩に「登戸橋」がある。「登戸」の地名が当時あって著者が「寒戸」と聞き違えたのか、この話にふさわしい地名として「寒戸」を考案したのだろうか。

 高度成長時代に農村地帯の遠野盆地にアパレル産業などの工場が誘致された。白岩にも地区の公民館、小学校、中学校のほか工場、商店、住宅などが集中し、ちょっとした市街地になっている。雇用者のためのコンクリート造のアパートが建てられた。ニョキニョキと立つ白い建物群は、「民話のふるさと遠野」の風景とは全く不似合いだった。
 長引く景気停滞で工場は閉鎖、縮小された。アパートの入居者も減り廃止されるはずだったが、東日本大震災の被害者が入居しているという。

 まもなく木枯らしが激しく吹く季節になるが、サムトの婆が里帰りする場はないようだ。

(11・11・11)

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