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「800字文学館」

西磐井郡大槻家の系譜

大月 和彦

 江戸時代の旅行家菅江真澄は天明年間、2年半にわたって岩手県南部の胆沢郡や磐井郡に滞在し、松島、黒石寺、中尊寺、衣川などの旧蹟を歩いて旅日記『はしわの若葉』を著している。
 この旅では、胆沢郡の知人宅のほか西磐井郡中里村山ノ目(一関市)の大槻家にも逗留した。
 達谷窟と厳美渓を見物した後「山ノ目に大槻清雄宅を訪ね、夜半まで語らう」とある。清雄宅近くの配志和神社に参拝し、境内の由緒ある菅香梅や今もある樹齢千年の老姥杉のことを描いている。数日後には胆沢郡の知人らと水沢の塩釜神社へ花見に出かけた。
 大槻清雄(1740一1802)は、代々西磐井郡の大肝入を勤めていた大槻家の8
 代目の当主で、役人の仕事を行う傍ら、和歌と俳諧に長じていたので真澄と親しく交際し、有力な支援者だった。奥州藤原氏の旧蹟の測量調査を行った人である。

 大槻家のル―ツは頼朝の側近葛西氏だといわれるが、戦国時代末期に飯倉城(一関市花泉)に分家した泰常が初代とされる。城内に槻(けやき)の大木があったので大槻姓を名乗った。4代目から西磐井郡の大肝入になり、以来中里村に居を構えていた。
 清雄の父7代目清慶の弟玄梁は、医学を学んで一関の藩医になり大槻宗家を離れた。その子で清雄のいとこに当たる玄沢の家が江戸大槻家と呼ばれるようになった。学者の家系として知られている。
 JR一関駅前に「大槻三賢人」像が建っている。蘭学者の玄沢、玄沢の子で漢学者の盤渓、玄沢の孫で国語辞書『言海』を著した国語学者の文彦。江戸大槻家が生んだ3人の学者である。

 長崎に遊学した玄沢はオランダ人の飲むビールを日本に最初に紹介した。10数年前玄沢ゆかりの地、一関市に地ビールが誕生した。
 配志和神社を参拝した後、震災被害の跡が残る醸造所を訪ねた。醸造所を改造したホールで三陸産の牡蠣を使ったという黒ビールを飲む。こってりと濃厚な味、つまみなど要らない。ちびちびと味わいながら飲む。ビールとは別の飲み物ではないかと思った。

(11・9・29)

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