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「800字文学館」

89年の生涯より(35) 忘れ得ぬ人々(六) 三井物産ロンドン支店長 青木三良

大庭 定男

 青木三良(あおき・さぶろう)さんがロンドン支店長に赴任されたのは一九六九年の初秋の頃であった。後に「バブル景気」と言われた好景気の入口にかかった頃で、日本経済の急拡大は世界中より注目されていた。商社も伝統的な輸出入に加え、現地法人設立、企業買収などにより現地化を進め始めていた。
 特に、ヨーロッパでは市場統合の進展、東欧共産圏の市場経済への模索などに対応して「汎ヨーロッパ広域運営」が緊急の課題となっていたが、現実は、主要国に現地法人を設立し、各々の商域を設定していたため、「商域侵犯」の争いが頻発していた。社外に向けられるべき精力が社内抗争に使い果たされるほど馬鹿らしい事は無い。
 三井物産では古くから、「欧州監督」という制度があり、ロンドン支店長が兼務していたが、実際には、ほとんど機能していなかった。ただでさえ、激務の支店長職に加え、海千山千の欧州店長までマネージ出来る人物を見出し得なかった為である。
 この情勢に対応するため、青木監督は商品、業務別にコーデイネータ制を発案、ヨーロッパ全店の最もシニアな人物をこれに充てた。
 私は調査、情報のコーデイネータを命ぜられ、毎週、「欧物週報」でヨーロッパを中心とした政治、経済、産業、商品動向を各部店に報告した。各部店はこれを取引先にも配り、かなり好評であった。私が定年で物産を去る時、「欧物週報継続を」の声が社内外より強かった。
 青木さんのマネジメント・スタイルは「即断即決」、見ていて気持ちが良かった。毎日、社内外より殺到する多くの来訪者、書類をそつなくこなし、その後は部下とゴルフ、ポーカー、麻雀を楽しんでおられた。
 「次期社長」の声は社内外より高かったが、副社長で退任、三井石油開発社長としてリスクの高い海外油田開発の仕事にあたられたが、間もなく、病魔に襲われ、亡くなられた。私の物産時代を通じ、最も敬愛してやまない方であった。

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