作品の閲覧

「800字文学館」 日常生活雑感

戦後の闇市

稲宮 健一

 八月と言えば戦後の事を語らずばなるまい。世田谷上馬の生まれで、ここで戦後を過ごした。この辺りは焼けたところもあり、残ったところもあった。現在『三茶』で親しまれている三軒茶屋は首都高が天を衝くばかりに広がり、歩く人を押え付けるように通っている。
 勿論、当時こんな邪魔物はない。交差点の周囲は空襲を受けた。交差点から下北沢に通じる太子堂通りには、両脇に露天がずっーと続いていた。確か、歩道に露店を広げ、車道を歩いて利用した。バスはまだ通ってなく、車も通らない。道路の後ろ側は全て焼け跡で、建物は何もない。縁日で使われているような商品台はなく、道の上に敷かれた布切れの上に日常雑貨品が並べられ、戦闘帽を被ったおじさんが、声を張り上げて売っていた。丁度、小学四年のころで、特別買うものがあるわけではないが、ただ、大人の人の流れに交じって、闇市を歩いたのを覚えている。
 戦後の楽しみはラジオだった。古橋、橋爪の世界新記録、湯川博士のノーベル賞、そして、「おらぁー三太だ」を伝えたのもラジオだった。鉱石ラジオを作り、イヤホンで聞いたりした。『初歩のラジオ』を何冊も買い、真空管ラジオの配線図集を広げながら、いつか自分で組み立てたいと思った。
 今の神保町から、秋葉原に通じる道沿いにラジオの部品を売る露店が歩道に並んでいた。もうこの時代には、各露店はテントの生地でできた、雨避けの天井が付いた立派な店構で、商品台に色々な部品が並んでいた。これらの店がやがて、今の秋葉原電気街に集まって、電気の街に成って行った。
 小学校五、六年のころで、『初歩のラジオ』を数冊束ねて持ち、ラジオ部品のウインドショッピングならぬ、露店ショッピングを楽しんだ。店のおじさんから「坊や、坊や、そんなに本を読まないとラジオが作れないのかい」とからかわれたりした。
 私の電気の事始めは乾電池で働く真空管、UX-111Bを使ったイヤホンで聞くラジオからだった。

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧