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「800字文学館」 文学・言語・歴史・昔話

88年の生涯より(34)忘れえぬ人々(5)評論家 土屋清

大庭 定男

 朝日新聞経済部記者 土屋清(1910-1987)の令名は戦前、私たちの学生時代から知れ渡っていた。朝日などでの論説に加え、東大時代の恩師河合栄治郎(1891-1944)教授の『学生と読書』など一連の教養書の編集者としても知られていた。
 この土屋さんとの縁は1962年、ダイアモンド社より『EECと日本経済』を出した時より始まった。この本は私を含めた3名が分担して書き、『土屋清編著』として出版され、EEC(現在のEU)の順調な発展にあらためて関心が向けられていた時だけにかなり売れ、その印税は安月給取りには有難かった。
 土屋さんの朝日入社は笠信太郎、尾崎秀実(おざき・ほつみ)と同じころで、「私がベルリン特派員になる予定であったが、社は軍から睨まれていた笠君を代わりに出した」とのことであった。また、尾崎については、「彼がゾルゲとあのような関係にあったとは全く気付かなった」という。
 土屋さんは経済、産業の各分野に通じ、独自の見解を持っていたので、政府の各種委員会には欠くべからざる人であった。ご本人も「政府委員にならないと、官庁の持っている莫大な情報が手に入らない」と言って引き受けておられた。
 中でも、エネルギー、石油化学関連に注力、乞われて中東経済研究所理事長に就任された。この時にも、「石油、石油と騒いでいるがこれも数年の事」と割り切っておられた。
 このように忙しい日々を過ごしておられたが、趣味のタイ釣りにはこだわっておられた。
 「講演の依頼は多いが、タイ釣りが出来る所なら引き受けている」と笑って話されたことがある。
 土屋さんは1964年、朝日新聞の内紛問題の際、社主側と対立し、同社を辞し、産経新聞社に移られた。その際、退社のいきさつを詳細につづった手紙を私もいただき、「誠に折り目のしっかりした人なるかな」と感心したことを思い出す。

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