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「800字文学館」 日常生活雑感

南無大師遍照金剛

志村 良知

 私は母の女の大厄である数え年33歳の時の生まれである。
 現在でも主義で自宅出産する人がいると聞くが、戦後間もなくの山村では自宅出産が普通であった。私も日赤の従軍看護婦で支那戦線帰りと言うお産婆さんの手で文字通りの生家で生まれた。出生時の体重が一貫目もあり結構な難産であったらしい。この時の大変さを母は後々まで、陣痛促進のため舐めさせられたキナ皮の苦さに例えて「あんたはあの苦さでびっくりして出て来ただよ」と表現した。
 34歳であった父は囲炉裏に火を焚きながら生まれるのを待った。夜になっても産声は聞こえず、焦燥感から季節外れの囲炉裏の火はどんどん大きくなっていった。

 大火焚き産声を待つ五月の爐(昭和23年5月25日)

 へその緒を切ったばかりの赤ん坊は箕に入れられ、夜中にも関わらず祖母の手で檀那寺の弘法大師像の前まで運ばれて捨てられた。赤ん坊は近所のおばさんに拾われ、お大師さんからの授かりものとして母の元へ届けられた。長兄は5歳に成長していたが、一家は戦争中に双子の女の子、終戦の秋に男の子とたて続けに亡くしていた。母親の大厄に生まれたこの赤ん坊には何としても育って欲しい、とお大師さんにすがったのである。

 痩せて眸の蒼し蜩ききすます(昭和25年 盛夏)

 幼児時代、私は何度か大病し家庭医の退役海軍軍医中将向山閣下の首を捻らせた。父はその度に「こいつも駄目か」と思ったそうである。
 しかし生まれ落ちての同行二人(どうぎょうににん)、私は生き延びた。小学校入学前の夏、重症の肺炎を患ったのを最後に病と決別、小学校では健康優良児表彰も受け、高校卒業まで12年間皆勤を通した。

 父母は私の成人後も檀那寺の弘法大師像にお参りするのは勿論、度々高野山にお礼参りをしていて私も誘われていた。そして、三十代後半の仕事が一番忙しい時、今しかない、と一緒にお籠りをした。この時帰りを松阪泊りとして和田金に上がったのは良い思い出である。

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