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「800字文学館」 日常生活雑感

「さん、さま、それとも役職?」

小寺 裕子

 他人をどう呼ぶか,他人から何と呼ばれたいかに、その人の価値観が現れていると言ったら大げさだろうか。
 豊田彰男氏が銀行の窓口で「豊田様」と呼ばれることに抵抗はないだろうが、部下からそのように呼びかけられたら耳を疑うであろう。笑い話のようだが、在外生活の長い教授が「豊田さん」と呼んだところ、周りの社員が小声で「社長」と呼ぶよう囁いた。社員は気を利かせたつもりだろうが、大企業の奢りを感じる。社員は一瞬のうちにこの教授を値踏みをしたはずだ。「豊田さん」と呼んで許してもらえるのは、世界のトヨタと同等の会社の社長くらいだろう。
 就職した夫が高校時代の同級生に職場で出くわし、「お,高田!」と呼びかけたところ、「や、小寺君」と言われたそうだ。一年先輩となっていた彼は権威主義、形式主義を重んじる模範的官僚だったのだ。
 2000年のことだ。鈴木宗男の虎の威を借り暴力さえ振るっていた佐藤優のことを「さん」付けでよぶよう当時の局長が夫に忠告してくれた。夫はロシア語の後輩は皆「君」で呼んでいるので当然断った。後日ある所で同席した局長を私は詰った。局長とは長年の家族ぐるみの付き合いだったので心底残念だった。すると彼はあたふたと「ポリテイカルにセンシテイブな問題なのだ」と言い訳した。
 このように面倒な呼称のことを外人に説明してもとてもわかってもらえない。企業の中には肩書きで呼ぶことを禁じ、全員「さん」で呼ぶようにしたところもある。たかが呼び方ではあるが、風通しをよくしようという意思が伴っているだけのことはある。久しぶりにその企業に行ってみたらずいぶんと明るい雰囲気になったと感じた。
 因に女たちはこんな問題とは無縁だ。夫人が集まる席でお互いを呼ぶ言葉は、年齢や夫の地位に関係なく「奥様」だ。最近はどこの企業や大使館でも「夫人会」に男性がおり、彼らをどう呼んだらいいのか、これなどは微笑ましい悩みというべきであろう。

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