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「800字文学館」 体験記・紀行文

ポルトガルへの旅

野瀬 隆平

 リスボンは坂の多い街である。急な坂道をケーブルカーが昇り降りしている。その一つラヴラのケーブルカーの終点近くに、アズレージョと呼ばれる装飾タイルに日本語とポルトガル語で書かれた碑文がある。
「葡国海軍士官にて作家たりしヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス(1854-1929)が生まれ育ちたるはこの家なり。長き歳月を愛する日本に過ごしたるかれは祖国に思いをはせつつ、かの地に死せり」
と読める。
 明治時代に来日し、日本人女性と結婚して、日本で生涯を終えたモラエスである。ラフカディオ・ハーンほど知られていないが、日本の文化を西洋に紹介した人物として忘れてはならない。初めて来日したときの肩書きは海軍士官で、マカオに駐在していた。以降、日本から武器を購入するため何度も来日して、長崎や神戸、大阪を訪れている。
 後に神戸・大阪のポルトガル領事となり、ますます日本にほれ込んだ彼は日本人女性、ヨネと結婚した。そして日本人の考えかたや風俗を好意的に書き綴って本国に送り、幅広く読まれた。ヨネの死後も日本に留まり、ヨネの郷里である徳島に移住して、昭和四年にこの世を去るまで、孤独な生活を送った。
 モラエスが日本に心を惹かれた理由の一つは、日本人の中にポルトガル人と似た独特の心情・情緒を見出したことである。ポルトガル語でいう、サウダーデ(Saudade)である。日本語で言い表すのは難しいが、哀愁とでも言おうか。
 新田次郎は、モラエスの日本での生活を描いた小説で、このサウダーデに「孤愁」という日本語をあてて題名としている。西洋人が当時の日本をどう見ていたかが描かれていて面白い。毎日新聞に連載されていたが、完結する前に亡くなったために、途中で終わっている。
「日本人を理解できるのはポルトガル人しかいない」とモラエスは言っているが、逆にポルトガル人を理解できるのは日本人しかいないのだろうか。二週間程度の旅では解らずじまいだった。

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