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「800字文学館」 日常生活雑感

疎開(その二)

稲宮 健一

 世田谷上馬の国民学校への入学が昭和十九年、戦争末期である。本土に近い所で死闘が繰り広げられてことなど全く気が付かなかった。給食の時に炊きたての美味しいご飯の匂いが教室まで漂ってきて、学校の北側の十三連隊の方に向かって、食べられるのも兵隊さんのお陰ですと先生に言われ、皆でおじぎをして食べた。
 秋口の夜中、父に起された。防空壕に避難する時、少し見上げた夜空を真っ赤に焼けた焼夷弾が落下する光景が今でも鮮やかにまぶたに残っている。
 十二月になると、祖父の故郷の金沢へ疎開することになり、もの珍しい雪国へ行くんだと興奮気味に近所の人にふれまわった。
 その年の冬は豪雪で、大人の背丈ほど積もった雪道を歩いたのを思い出す。市内の中心地に間借し、芳斎町の小学校に通った。顔見知りの親戚も多かったので、世田谷と変わらない都会の生活を過ごせた。夏前にはもう金沢弁になり、その頃疎開してきた生徒の「・・・だぜ」と言う東京弁が妙に聞こえた。
 初夏の頃、富山が空襲に襲われた。次は小松基地がある金沢も危ないと言われ、祖母方の故郷である大聖寺の近くの天日村に引越した。ここは遠縁の地ではあるが、顔見知りのいない田圃に囲まれた田舎であった。
 時期は丁度稲の伸び盛りで、雑草取りを手伝わされたり、夜にお宮のそばの祠に村の子供が集まり、持ち寄った食べ物を食べ仲間同士の話をするなど、よそ者にはすぐに溶け込めない雰囲気だった。また、学校ではいじめにあった。
 悪いことに、目の前にたわわに稲が育っているのに、まともなご飯が食べられず、芋ずるの混ざった雑炊などを食べさせられ、遂に栄養失調になった。体中にできものができる免疫不全である。終戦の知らせを母から聞いた時、これで東京に帰れるとほっとしたのを忘れない。秋に自宅に戻った。
 疎開の後半の辛かった事柄はスポットで覚えているが、その時の日常の生活は記憶にない。なぜ記憶に空白があるのか分からない。

陸軍十三連隊跡地:一部が昭和女子大学になっている。

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