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「800字文学館」 体験記・紀行文

北岳

新田 由紀子

 甲府駅を出たバスは盆地を20分も走ると、もう緑濃い山裾に入る。芦安温泉からは一気に蛇行して登りつめ、夜叉神トンネルをくぐる。標高1380m。出た先には連なる峰と切れ落ちる谷以外に、目に入るものは何もない。甲斐駒ケ岳と鳳凰三山から続く尾根の端を抜けて、南アルプスの山懐に入ったのだ。車窓からまだ北岳は望めない。谷底に細く光るのは野呂川。終点広河原はその上流にある。

 バスを降りた登山客の眼の前に、北岳は3193mの頂きを天に突き上げる。「日本百名山」の中で深田久弥が「高潔な気品」と讃える国内第二の高峰。はるかな岩峰から明日はこちらを見下ろすのだ。山鳥のさえずりと沢音がこだまする中、七キロのリュックを背負って上へ上へと歩を運ぶ。初日の行程は白根御池小屋2236mまで標高差700m、三時間あまりをかけて辿り着く。

 朝六時、中高年組が小屋を出る頃には、早立ちの体力自慢縦走パーティはもういない。今頃は森林限界を越えているだろうか。悪名高い「草スベリ」の直登をあえいで尾根に出る。南アルプスの女王仙丈ヶ岳が優美な姿を現す。稜線の眺めをほしいままにして、砂礫と這い松のリズミカルな登りは楽しい。いくつもの岩塊を越えると3000m北岳の肩。頂上に続く岩稜を背にした「肩の小屋」はまるで戦陣の古参兵のようだ。

 伝説の巨人が投げては積んだのか、重なる岩塊に心肺はたぎり、頭は高山症状できしむ。酸素不足の重い足が最後の岩を踏んで上がると、出迎えた富士山は目の高さだ。その眺めはどうだろう。人は鳥になったかのようだ。大空にとけて舞うかのようだ。晴天微風気温十度。登山日和穏やかな天空で至福の時間を満喫する。はるか緑の底の白い粒は登山口のバスターミナルだろうか。小屋に降りれば雲上の乾杯と星座の下の一夜が待っている。

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