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「800字文学館」 体験記・紀行文

88年の生涯より(30) 忘れえぬ人々(1) 陸軍少将 馬淵逸雄(その1)

大庭 定男

 西部ニューギニアの第五師団参謀長からジャワ島バンドンの独立混成第二七旅団長として、馬淵閣下が着任されたのは、沖縄に米軍が攻撃を始めた一九四五年三月末であった。

 シナ事変初期にシナ派遣軍報道部長として馳せた令名から、一風変わった旅団長が来ると我々若手将校は半ば期待、半ば惧れを持って迎えたところ、激しい文化革命が始まった。閣下が指摘された事は「すべてがのろい。形式に囚われている。これでは実戦に役立たない」と言われ、率先垂範、司令部の改革に乗り出された。

 つぎに驚かされた事は、階級に関係なく、人材を登用、権限を与えて仕事をさせることであった。ニューギニア時代には広大な農園管理の責任を兵長に任せ、部隊に農作業をさせたという。階級性の厳しい軍隊の中で「餅は餅屋」の理論を実践されたのであった。

 馬淵旅団長の着任後五ケ月で敗戦となった。インドネシア共和国は直ちに独立を宣言した。一方、連合軍側は「一九四三年日本軍占領時の状態で蘭印を返還」を要求したが、これは実行不可能なことであった。

 馬淵閣下が打った手は①進駐してくる、英蘭軍との間の不祥事を避けるため、日本軍の主力をバンドン周辺の高地に移し、復員まで自給自活させる②バンドンには英蘭軍との渉外部を残し、折衝にあたる③インドネシア独立勢力の有力者を取りこみ、日本軍との間の紛争を解決するということであった。

 ジャワ西部地区は馬淵閣下の政治力、統率力で平穏を保ちえたが、中部、東部ジャワではいずれもインドネシア側に抑えられ、日本軍は抑留され、苦労の多い日々を送った。

 英蘭軍は命令違反の廉で、長野軍司令官を逮捕、後任に馬淵少将を据えた。また、戦中の連合軍の捕虜の待遇に対する報復として日本軍を捕虜の保護条項を適用しないJSP(Japanese Surrendered Personnel)として酷使した。この処遇改善のために馬淵閣下が払われた努力は大きなもので、ジャワの日本軍は一九四七年五月までに全員復員できた。「馬淵閣下のお陰で生きて帰れた」と信じている復員兵は多い。

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