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「800字文学館」 体験記・紀行文

灰皿は投げられた(ひとよぎりシリーズその三)

富岡 喜久雄

 バグダッド支店の前で現地スタッフが並んで手を振り、口々に「行ってらっしゃい。またね」と叫んでいるのを背に、勇躍、バグダッド空港に向かった。クエートでのビザ更新と食料調達の旅だった。
 当時イラクとクエートは多少の諍いはあっても、それほど緊張状態にあるとは報じられてはいず、それでも両国国境近くの石油採掘については頻繁に会議が持たれていた。イラクは領内の石油をクエートが汲み上げているので弁償せよと要求していたのである。現地の新聞は会議の模様を、クエート側のあまりの尊大な態度に、イラク代表が灰皿を投げつけたと報道してイラク人の溜飲を下げさせていた。クエートでは彼らが仕事はお雇い外人任せで何もせず、大型アメ車を我が物顔に飛ばしているのを見ていたから、我々もこの報道にいささか共感するものがあった。

 バグダッド空港から飛ぶこと小一時間。機内は品の良い英国人家族と少数のイラク人のみ。クエート空港に着くとインド人スタッフが開口一番、
「ノー・プロブレム、クライシス・オーバー」と言った。
 そこで彼にパスポートを渡し、イラクへの再入国ビザ取得を頼んだ。彼らは何時でもノー・プロブレムだから安心はできないが、先ずはイラク飯から開放されて日本食にありつけるかと期待したのに日本料理店は閉まっていた。
 やむなく韓国料理店で、白飯に焼肉、キムチと禁制の冷えたビール。これで生き返りホテルはメリディアン。屋上のプールで満天の星を眺めながら泳げば、夜空には煌く星と月があり、そして水中には異国の美女の白い肌。腹は充ち、ここぞ、イスラムの天国かとの思いがしたものである。その夜は久しぶりの快眠だった。

 翌朝五時、腹に響くドスン、ドスンという砲声と地鳴りが聞こえ飛び起きた。窓から下の道路を見ると、街灯をなぎ倒しながら戦車が走り、ヘリコプターは我等が施工の王宮にロケット弾を打ち込んでいる。イラクのクエート侵攻の始まりである。一九九0年九月三日の朝だった。

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