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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の成長期(5)(日航vs全日空)

都甲 昌利

 1973年に運輸省から出された通達によって、日本の空の棲み分けに変化が生じた。「日航は国際線定期便と国内線の幹線を運営し、全日空は近距離国際線の不定期便と国内準幹線、東亜国内航空は国内ローカル線をそれぞれ運航する」というもので当時は「航空憲章」といわれ航空会社の守るべき指針が述べられていた。全日空に近距離国際線を認めた最大の理由は、日中平和条約が結ばれ、また米中間の国交回復、そして中国の経済発展および東南アジアの政治経済環境の変化に対応するのが目的だった。

 日航だけに甘い汁を吸わせるな、日航対全日空の火を吹く空中戦の始まりである。全日空に与えた近距離国際線の不定期便とは中国、韓国、ベトナムといった近距離に飛ばすチャーター便のことである。
 チャーター便もあらかじめ週に何便とセットしておいて運航すれば定期便のような形で運航できる。全日空はこのようにして便数を増やしていった。
 全日空がライバル日航に国際線での路線権、保有機材など航空企業として対抗するには航空業界以外の新経営戦略を必要とした。当時の全日空の株主構成をみると、大手電鉄系、生命保険会社、大手銀行、朝日新聞などが占めて、社外役員として三井物産、三菱商事、伊藤忠商事の元社長や日本精工社長、近鉄会長らを経営に参加させ、総合力で「打倒日航」の狼煙を上げた。

 日航と全日空の対立はまた、社長の対立でもあった。日航の社長は運輸省事務次官から天下った朝田静夫氏、全日空は同じく朝田氏より3年後輩の運輸事務次官経験者の若狭得治氏で両者は犬猿の仲だった。若狭体制になってから「打倒日航」を目指し、ことごとに対抗意識をむき出しにしたのは運輸省出身ということもあった空に権益分捕り合戦でそのライバル意識がむき出しなったためだ。
 若狭氏はその後、政・財・官を巻き込んだロッキード事件で有罪判決を受けるが、全日空社内では中興の祖としてその人気は高かった。

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