作品の閲覧

「800字文学館」 仕事がらみ

給湯室から

濱田 優(ゆたか)

 今は昔、お茶汲みがOLの雑用の最たるものであった頃、オフィスの給湯室は彼女たちの仕事場であるとともに、プチオアシスでもあった。毎日、お茶を入れながら世間話や噂話に興じる、昔々の井戸端さながら、男社会の会社でOLたちが一時(いっとき)息抜きできる数少ない場だったのだ。
 当然、嫌味な上司や男性の悪口も出る。ときには、お茶にフケを落としたり、雑巾の絞り汁を入れたりして憂さを晴らすこともあったとか。本当だろうか。

 私の会社では、女子社員が新婚の男性にちょっとした悪戯をしてからかう風習があった。ハネムーンから戻った男の初出社の朝、お茶に塩を入れるのだ。男は塩が入っていることを知っても我慢して飲む。女たちはそれを上目遣いで見て面白がった。塩を入れるといっても、普通は一つまみ指先でまくだけだからそんなに塩っぱくない。だが、仲間の女性を泣かせた男には、天誅とばかり塩の固まりを入れることもある、と聞くから恐ろしい。

 給湯室はOLがたむろする所であっても、男子禁制の場ではなく、お湯が入り用のときは誰でも出入りできる。
 あるとき、私は急にお茶が欲しくなり給湯室に向かったところ、いつもと違う女の声がして足をとめた。声の主は、ちょっと見栗原小巻似の、私が前から憎からず思っている経理の加奈子のようだ。彼女は私の部下の絵梨と仲良しで、その日も油を売りに来たのだろう。

 この間、うちの部の忘年会に加奈が来てくれた。その折、彼女が大の新劇ファンと聞いて、文学座の正月公演に誘ったところ、是非行きたいと乗り気を見せた。
 私は有頂天になったものの、酒席の話を真に受けていいものか。丁度いい、ここで念を押そう。私は仕切りの前に佇み、彼女が一人になる機会を狙った。彼女たちの声が漏れてくる。うん? 私の話だ。
「二人きりだと何だから、絵梨、一緒に行ってくれない?」加奈が頼んでいる。
「大丈夫よ。彼は安全パイだから」と、絵梨が太鼓判を押した。

(了)

作品の一覧へ戻る

作品の閲覧