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「800字文学館」 日常生活雑感

シャガール展で

平尾 富男

 シャガール展の最終日に出かけた。祝日と重なっていたので混雑を予想して、朝早く家を出る。幸いに美術館のチケット売り場付近に人は疎らだ。

 窓口に向かおうとすると、五十歳前後の品の良さそうな女性が近づいてきた。
「チケットをお求めですか。よろしかったら一枚差し上げます」と辺りを憚りながら目の前に差し出した。千五百円のチケット代が浮いたと内心嬉しくなったが、突然なので気味の悪さを覚えて受け取るのを躊躇する。それを察してか、売り場を背に並んで囁く。
「実はチケットを知人から二枚頂戴したんですが、一緒に来るはずのお友達が急に来られなくなったので」
 そこまで言われて断る理由はない。小さな声で礼を言ってチケットを受け取った。美術館に入って間もなく、件の女性が再び私に近づいてきて小声で言った。
「あの、チケットをくださった方にお礼をしたいので、出来たら五百円頂けないでしょうか」
 口頭だけでは礼を欠いたのかと、展示室の隅によって小銭を探したが、生憎百円硬貨が足りない。しぶしぶ千円札を差し出す。五百円安く買ったと思えば得をしたことに変わりはない。すると相手は、予期していたように財布から出した五百円硬貨と引き換えに千円札を受け取り、既に来場者で混雑しつつあった薄暗い館内の雑踏に消えた。

 展示室はいくつかの階に亘って、テーマ別に配置されていた。「彼女を巡って」「日曜日」等々、幻想と謎に満ちた沢山の展示作品に圧倒され、異色の画家シャガールの世界に没頭することが出来た。
 画家は、メトロポリタン歌劇場での『魔笛』初演(一九六七年)の舞台衣装、セットデザインも担当している。そのときのスケッチ画などの作品群が一室に纏められて展示されているのも今回の展覧会の目玉だった。

 秋風が爽やかな昼時前の上野の森を歩いて、ふと誰かを探している自分に気がつく。いや、シャガールの絵の中の、謎めいて素朴なデフォルメされた女性の姿を追っていたのだ。

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