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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の成長期(2)(空の日米戦争)

都甲 昌利

 昨今の世界的空の自由化時代には考えられないことだが、1960,70年当時の国際航空運航体制は各国の航空協定によって運営されていた。つまり、太平洋路線の場合、乗り入れ都市、使用機材、便数などは日本政府とアメリカ政府の合意によって決められた。いわば、国家の権益の戦いだったのだ。従って、航空会社は最も大きなマーケットを有する都市の乗り入れを希望する。PAAは東京を、日航はニューヨークを乗り入れ都市に選ぶのは当然だ。しかし、PAAがすでに東京に乗り入れているのに、日航はニューヨークには乗り入れることが出来なかった。それは敗戦後締結された不平等協定のせいだ。

 日本政府は航空協定改定への協議を米国と始めた。米国がすんなりOKをするわけがない。相互主義に基づいて日本側も何かを与えなければならない。日航はまずニューヨークに乗り入れてそこからロンドンとパリに路線を伸ばし世界一周線を作るという野望があった。世界一周線を持っているPAAに追い付きたかったのだ。

 1966年、政財界はもとより世論の代表たるマスコミまでもが日航を応援した結果、日航はニューヨーク乗り入れを果たす。翌年、念願のニューヨークーロンドン線を開設し世界一周線を実現した。この時期ほど国民世論が一致した時期はなかった。国会でも「ニューヨーク経由世界一周線は国民の長い間の熱望であり、日米航空協定改定に当たっては、協定の破棄も辞せずという強い決意であたるよう」と政府に要望する決議を満場一致採択した。今考えると野望は採算を度外視する。ニューヨークーロンドン線は採算が合わず数年後に撤退した。

 世界経済の安定した成長とともに、日航は路線を拡大しつつあったが、内部においては労使問題が悪化し、1964年には日本の民間航空史上初めてのストライキがおこった。マスコミは「殿様スト」とか「お姫様スト」と書きたてた。このような状況の中1970年B-747ジャンボ機を導入、いよいよ空の大量輸送時代を迎えるのである。

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