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「800字文学館」 体験記・紀行文

ベトナム・スピリット(その一)

富岡 喜久雄

 嘗てベ平連の時代があった。その後米越戦争も終わりベトナムがドイモイ政策なる開放経済に向かって舵を切り始めた頃、私のベトナム・フリークは始まった。当時、私はハノイ市と合弁でのプロジェクトを立ち上げるべくハノイを頻繁に訪問していた。米軍も北爆を遠慮したようで、街にはフランス調の黄色い建物が残り、広い道路の両側には鬱蒼と街路樹が茂っていた。車も少なくシクロと呼ばれる人力三輪車がタクシー代わりで、人々の服装も地味で、白いアオザイ姿の女学生だけが目立っていた。ある日曜日、私は自転車散歩と洒落た。やがて、とある小学校の門前にイングリッシュ・センターと書いてある看板が目に留まり、興を覚えて中へ入ってみた。窓に寄り中を覗くと、二人並んで一冊の教科書を使いながら学んでいる若い男女が見えた。すると、不審に思ったのだろう、年若い女性教師が寄ってきて「何か御用ですか」と聞いてきた。白ブラウス、黒ズボンの質素だが清楚な出で立ちである。

 「日本のビジネスマンです。皆さん熱心に勉強しているので見ていたのです、ご迷惑でしょうか」
 「そうですか、なら何か生徒に話してやってくれませんか、外国人から話が聞けると生徒も喜ぶでしょうから」
 それではと中に入り戦後の日本のことをやさしく話したのだが、最後に一人の若者がたどたどしく質問した。
 「ベトナムはアセアン諸国に追いつけるでしょうか」
 「英語は単なる道具です、アメリカ文化に染まらずベトナム・スピリットを忘れなければ必ず出来るでしょう。ベトナムは世界で唯一アメリカに勝った国ではないですか」
 私は健気な若者達への思いからか胸が詰まり、上ずった鼻声で強調してしまった。

 その後教員室にも招かれ、大鍋から粥まで振舞われたのである。仕事上では彼らの経済観念の違いに悩まされはしたが、悪印象へと変わる体験もなく合弁契約はスタートできた。国への好悪は人それぞれだが、私の思い入れを増すようなエピソードはさらに続いた。

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