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「800字文学館」 創作作品

インストラクター

濱田 優(ゆたか)

 近ごろは聞かれなくなったが、10年ほど前までは「OA化」の推進が盛んで、会社の事務所の光景が大きく変わった。
 そう、古田が現役の終わりに近いころである。このとき彼はいつも人の後を歩いていた。そもそも、ものを書くのに紙を前にしてペンを握らないと構想が練れないのだ。しかし、次第に手書き派が少数となり、おおかたの人がワープロで文書を作成するようになると、いつまでも手書きの原稿を女性に清書してもらうのはあんばいが悪い。で、仕方なくキーを叩きはじめた。

 ところが、彼が皆に追いつく前にネットワーク化が進んでメールが情報伝達の主役になり、また置いてけぼりをくいそうになる。会社側も情報格差を防ぐ手立てをあれこれ考え、特に落ちこぼれ三羽烏の一人と目される古田には、名うてのインストラクター富樫節子が付けられた。
 節子は三十半ばの理知的な女性で、ほとんど感情を表さず、理論整然と話す。古田が得意の駄洒落を飛ばしても、にべもなく、「寒い!」とも言ってくれない。取っ付きにくいことこの上ない。些細なミスも見逃さずに指摘する。万事アバウトなアナログ人間の古田からみると、彼女は異星人かロボット。とても熱い血の通う人間とは思えない。

 ある夜遅く、古田は六本木の街角で節子を見掛けた。会社ではすきのないパンツスーツ姿の彼女が、ふわっとしたドレスを着ている。が、独特の歩き姿から彼女に間違いない。洒落た紙袋を手にしていた。好奇心に駆られてあとをつけると、とあるライブハウスの前に集まっている熱気を帯びた女性の群れに、中背の彼女は紛れ込んでしまった。側にいた中年の女性に聞けば、元チェッカーズの藤井フミヤが出て来るのを待っているという。節子はフミヤの追っかけだったのだ。紙袋はプレゼント? ちゃんと渡せたかな。
 翌朝も節子の態度に変わりはなかったけれど、彼女が異星人でもロボットでもないことを知った古田の心に一方通行ながら親近感が湧いていた。

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