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「800字文学館」 仕事がらみ

日本航空の黎明期(5)(おしぼり、アメ、着物)

都甲 昌利

 国際線進出で大きな赤字を出した日本航空は、販売強化策に乗り出した。当時、米国は自由主義経済圏のなかでは圧倒的な経済的大国だった。アメリカ人の観光客やビジネス客を取り込むことが先決だった。
 パールハーバー・ショックで日本嫌いになっていたアメリカ人に新生日本を理解して貰うには、政・官・民の協力が不可欠だった。強力な助っ人が現れた。運輸省(現国交省)の下部機関のJNTOである。サンフランシスコやニューヨークに事務所を設立し、日航と相携えて日本宣伝に励んだ。日航を売るのではなく日本の文化や伝統を売ろうというのが合言葉だった。

 日本航空が機内サービスにおしぼりや着物を何時導入したかは、いろいろ調べてみたが、資料が無い。アメのサービスは民間航空の先進国米国のUA航空が始めたサービスらしい。おしぼりと着物は日本が発祥である。離陸前の乗客に対するおしぼりサービスは評判を呼んだ。アメリカ人はびっくりした。着物サービスはファーストクラスに限定されが、彼らには珍しいので、エコノミークラスの乗客ものぞきに来たという。こうした努力の甲斐があって米国人の乗客は増えていった。日航幹部に「スチュワーデスがお客を吸い寄せた」と言わしめたほどだった。そのため、PAなどは日本人スチュワーデスを採用し、日航に走った旅客を奪回しようと懸命だった。

 昭和30年代の日本は、敗戦によって壊滅した日本経済を如何にして復興させ自立させるかであった。資源を持たない日本は産業に必要な石油、鉄鋼など外国から輸入しなければならない。原料輸入、製品輸出という貿易立国をめざした。それには外貨を稼がなくてはならない。当時、外貨不足が叫ばれ、日航も外貨獲得の一翼を担った。外貨節約のために日本人旅客は持ち出し外貨を制限された。

 かくして、太平洋線でPAやNWと激烈なる競争を演じつつ、日航はプロペラ時代からジェット時代を迎えるのである。

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